• 072月
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     彼女が出て行って以来、俺は数通のメールを送った。読まれる可能性は低いと思っていたが、彼女は読んでいた。そして今日、返事が届いた。

     彼女からのメールは何通にも渡った。そこには俺との生活の中で彼女の気持ちにどういう気持ちの変化があったのか、どういう経緯でここを出てゆき、今どう思いどんな生活を送っているのかが書かれていた。

     概要はこうだ。

     俺に対する様々な不満と、結婚・出産に憧れる気持ちとが重なり、他の男に目を向けるようになった去年の夏ごろ、彼女はバイト先で知り合った男と付き合い始めた。相手がバイト先の男だったこと、勤務表を家に持ち寄らなくなった理由など、俺の想像通りだった。

     彼女は俺と、別の男との、二重生活を続けた。向こうでどう過ごしたのか詳細は知らないし、正直、知りたくもない。ただ、結婚を申し込まれたこと、それを承諾したこと、向こうの親とも何度か会ったことを聞いた。

     1月の中旬、俺が酒癖の悪さを露呈した夜、もう我慢ならなくなった彼女は男にメールを送った。それが決定打となり、男は彼女と暮らす部屋を早速見つけ、それから引っ越す準備などをすすめた。彼女はそれから少しずつ自分の持ち物をバイトのたびに男に渡し、2月2日、この家を出た。役所で転出届を提出し、保険証を書き換えて。

     新居は綺麗なマンションの一室。最初は調度類がほとんどなく、ヒーターもないなか、彼女は掃除などをして過ごした。徐々に100円ショップで小物を買い揃えながら、彼女は男のために夕食を作り、弁当を作り、“以前のバイトを続けながら”、生活しているという。どうやら俺は彼女のバイト先の連中にも担がれたらしい。

     俺という人間に見切りをつけた彼女であったが、いざ男との暮らしが始まると、違和感を多分に感じるようになった。聞けば、男は穏やかな人間で怒ることがないそうだ。まあ当たり前だろう、暮らし始めたばかりなんだから。しかし、それとは別に、男のだらしさな、無神経さなどが気になり始めた。分かってくれないという不満を彼女は感じている。

     このあたりでメールでの応酬が面倒になったので、電話をしてくれと頼んだ。電話が来た。

     謝った。不思議なもので、実際に彼女と話をすると、先日までの湧き上がる罪悪感に押し潰されるような辛さはなく、ただしょんぼりと謝ることしかできなかった。それからしばらく話をした。彼女の気持ちが揺らいでいることは分かった。ここぞとばかりに戻って来いとも言ったが、男への不満を口にする彼女に、なぜか頑張れと言ってしまった。俺が何をしたいのかよく分からなかった。とにかく幸せな決断をして欲しいと思った。一時の感情に流されるのではなく、もっと長い目で見て想像して欲しいと思った。その男と本当に結婚したいのかという問いに、彼女は分からないと答えた。当然だろうと思う。彼女はまだ、彼のことをほとんど知らないのだ。だから、男のことをちゃんと見ろ、俺との比較ではなく、そいつ自身を見ろと言った。言ってるそばから後悔した。

     それからはよく覚えていない。とにかく俺は、俺たちがやり直すために必要な互いの気持ちの入れ替え、生活の改善など、あれこれを話した。彼女の協力が必要だとも言った。結果、彼女は、俺とはやっていけないという決断を下した。俺は了承し、彼女の幸せを願って電話を切った。

     これで、全部、終わった。

     もうここに何か書く理由はない。俺は彼女も自分も解放することにした。

     なめらいと (完)

     追記:山本葵の現在、そして今後の動向に関しては、交際相手のサイト等でいずれ明るみになる。URLは以下のとおり。

     http://kiryunagisa.nobody.jp/

     http://mixi.jp/show_friend.pl?id=2478524&from=navi

     http://www.iit-inc.co.jp/center.html

  • 052月
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     事が起きて3日も経つと激情にかられることもだいぶなくなってきた。落ち着いたというよりは疲れて麻痺してきている。昔なら大酒飲んで泣いたり喚いたり暴れたりして発散できたんだが、どうもそういう気分にはなれない。こんなふうに悲しみを溜め込んでゆくのはまずい気がする。

     お前はウェブアーカイブで昔の自分の日記を読むのが好きだったね。思い出話をするのも好きだった。でも俺はこれまで過去というものに全く興味がなかった。それどころか思い出に浸るお前を馬鹿にしていた。済んでしまった出来事を振り返って何になると思っていた。そんな俺がお前の昔の日記を読み漁っている。そして長らく忘れていたことを思い出した。

     以前のお前は日常の中で、ほんのささやかな楽しみをいくつも見つけていた。三日坊主に終わることも多かったが、次から次へといろんなことにチャレンジしていた。なんてことのない風景にも感性を研ぎ澄ませて感動していた。そして、それを俺と共有したがった。二人の人生を豊かにしようと努力していた。自分は何の取り得もない空っぽの人間だと卑下していたが、そんなことはなかった。対人恐怖症と言っていいほど人と接するのが苦手で、時には外出するのもままならなかったのに、お前は心療内科に通いながらも仕事を探し働いた。何度も挫折して、泣いて、それでも立ち上がった。底抜けに明るくて無邪気で包容力があって感情が豊かで頑張り屋で、そんなお前の性質に俺は随分と安らぎを得て助けられていた。

     俺は昔からお前を否定してばかりいたように思っていたが、実際はそうじゃなかった。頑張っているお前をねぎらい、励まし、応援したことも少なからずあった。俺もまんざら悪い面ばかりではなかった。でも、いつしか俺はそうすることを忘れてしまった。どんどん厭世的になって鬱状態になり、何事も諦めて希望を見出せなくなった。投げやりになった。俺は変わっていった。お前のことも変質させてしまった。しかし自分がまずい状況にあることは自覚していたから、この2年ほどか、お前が些細ななことに喜んで俺に報告してきたら、努めて大きく反応するようにしていた。失敗することも多かったが、なるべく寛大な気持ちで穏やかに接しようと努力していた。一応俺も、それなりに頑張っていた。

     お前が昔の日記を度々読んでいたのは、あの頃の気持ちを取り戻すためでもあったのではないか。思い出に浸る効能みたいなものを、お前は経験的に知っていたのではないか。そうして更に気持ちを奮い立たせて心機一転、また明日から頑張ろうと。俺はその効能を、ここ数日で初めて知った。

  • 042月
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     お前専用の本棚の奥から、小さなノートが見つかった。9年ほど前にお前が旭川からこちらに出てきて間もない頃、つまり俺たちが一緒に暮らし始めた頃に買ったものだ。中には走り書きのようなくちゃくちゃの汚い文字で、お前が以前勤めていた夜のお店をやめてから2ヶ月も仕事が決まらないのはなぜか、その問題点と改善策が、いくつも箇条書きにされている。

     問題点は、“働かなくても最低限の生活ができるからついつい”とか、“○○(俺)がまた許してくれると思って甘えてしまう”とか。改善策は、“自分をダメだと決め付けない”とか、“ポジティブに考える”とか。更に、“このままでは○○に愛想を尽かされてしまう。それは絶対に嫌だ!”、“○○にしてもらうだけじゃなく、○○にしてあげられることを見つける!”とも書いてある。この頃はまだ、お前の愛情は真っ直ぐに俺へと向けられていた。

     今度はウェブアーカイブでお前の昔の日記を読んだ。やはり8年から9年前のものだ。そこには読んでいて狼狽してしまうような、俺とお前の赤裸々な日常が記されていた。“私と彼氏は事あるごとにキスをする”とか、“昨日の夜は激しかった”とか、性生活の詳細まで書かれていた。その頃のお前は既に働いており、公私共に充実していて活力が漲っている様が見て取れる。そして俺も、お前に対して真っ直ぐに愛情を向けていた。

     お前のノートや日記を読んで、俺たちにもこんな時期があったのかと驚き、すっかり忘れていたことに愕然とした。ここ1~2年の俺たちときたら、セックスレスどころかキスもろくにしていなかった。俺は不機嫌そうに黙り込んでいることが多く、お前はそんな俺に居心地の悪さを感じていた。考えてみれば、俺たちはとっくにバラバラだったんだ。長い年月が経てば甘いムードが失われてゆくのもいたしかたないが、それしても俺たちは冷めすぎていた。というより、俺が二人の間に冷え切った空気を作り上げてしまっていた。お前が出てゆく結果になったのは必然だ。

     ノートにはまだ続きがある。お前は「心がけること」として、“姿勢をよくする”、“いつも笑顔でいる”、“いつも綺麗でいる”など、女を磨くためのあれこれを書いている。そして最後に、「自分のやりたいこと」として、”○○と一緒にいる。ゆくゆくは結婚したい。子供を産みたい。”と締めくくっていた。その時点で既にお前がそう思っていたなんて、俺は初めて知った。気づいてあげられなかった。俺は何を見ていたんだろう。

  • 042月
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     なんだか、やれることは全てやり尽くした感がある。お前が残したあらゆる痕跡・情報を偏執狂的に一つ一つあたってみても、何も出てこなかった。さすがにもう疲れた。

     お前への思いのたけをいろいろと書いたものの、所詮は一方通行だ。お前から何らかのアクションでもあれば、それが燃料投下となるんだろうが、そうでない限りネタ切れも時間の問題だろう。

     このまま時だけが過ぎたら、お前の思い出もいずれ薄れゆくのか。こんなにも取り乱している俺が1年後には、そういえばあいつは元気にやってるかな、と穏やかな心持ちでお前を思い出すんだろうな。そのときお前は、もしかしたらお腹を大きくしているかもしれない。今はまだ想像すると複雑な気持ちだが、お前が孤独になっているよりずっといい。不幸になっているよりずっといい。

     お前よりも前に付き合ってきた何人かの女が今、不幸だろうと死んでいようと全く興味がない。これまで俺は、別れた女の幸せを願ったことなど一度もない。知ったことではないのだ。でもお前の場合は違う。もしかしたら俺にとってお前は、初めて本気で好きだった人なのかもしれない。それとも単に、お前に対する罪悪感の裏返しなんだろうか。

     これからの俺の人生を想像してみる。たぶん俺にはもう恋人はできないだろう。別に一時の感情で言うのではなく、たぶんそうなる。また誰かと知り合って関係を深めてゆくプロセスを経るなんて、そんな面倒なことは金輪際ごめんだ。やがて俺は歳をとってゆき、お袋が死に、親父が死に……。俺はこの家を引き継いで一人で暮らす。たまに弟夫婦や甥っ子姪っ子が遊びに来るも次第に疎遠となる。そして、酒と煙草という悪習がたたり、そう遠くない未来に俺も死ぬ。弟夫婦が葬式を出して、俺はわけの分からない戒名をつけられる。身体は焼かれ小さな骨となり、骨壷にコトッと落とされる。そのコトッという音だけが、俺がこの世に残す最初で最後の、唯一のものだ。あとは親父とお袋が夫婦水入らずで入っている墓へお邪魔するのだ。お前はそんな末路を寂しいと思うか? 俺はシンプルで良いと思う。

  • 042月
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     こうして駄文でも連ねていないと自分を保てない。他に熱中できることがあればいいが何もない。映画を観る気にはなれないし、気分転換にとゲームを少しやってみたが楽しくなくてすぐやめた。このブログを最古の記事から読んでみたら、むしろ苦痛を感じて続かなかった。なぜならお前の日記には、辛い本音がほとんど書かれていないからだ。差しさわりのないことばかり書いているからだ。

     実際のお前はずっと悩んでいただろう。主に俺との関係のことで。俺が何かにつけて否定的だから、お前は自分の存在まで否定されているように感じていただろう。30歳になろうという去年は更に、結婚や出産も強く意識するようになって、悩みは深まるばかりだったろう。なのにお前はそんなことをおくびにも出さず、真意を隠して淡々と、書いても問題のない穏やかな日常の風景を羅列した。

     それはなぜだか分かってる。このブログが俺の目に触れるからだ。もしも本音など書こうものなら俺に厭な思いをさせるのではないか、俺に何か言われるのではないか、そう思ったからだ。だから俺はお前の日記を読むと辛くなる。お前の日記の向こうに、お前を抑圧する俺の姿が見えるから。恐怖政治のごとく手法でお前を雁字搦めにしてきた、俺自身の醜い姿が見えてしまうから。

     お前は時々、本音をぶちまけるべく、他のあちらこちらにブログを開いた。それらにどんなことが書かれていたのかは、読ませてもらえなかったので分からない。ただ一つ、ミクシィの日記だけはお前の手違いで俺の目に触れることとなった。そこには、「一緒に暮らしているパパがいまーす。エッチはずうっとしてませーん」などと書かれていた。これにはいろんな意味で落ち込んだ。

  • 042月
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     丸二日メシを食っていない。睡眠は3時間。更に、とうとうゴミまで漁ってしまった。お前がどこに行ったかを示すわずかな手がかりがないかと思って。その瞬間をビデオに撮って見たら、さぞかし俺はおぞましい姿をしていただろう。いよいよ限界か。で、手がかりはやっぱりなし。

     でもちょっとした収穫というか、そこまでではないが、少しだけ分かったこともある。お前は先月下旬、新たなバイト先に面接を受けに行った。帰ってくると、即日合格して2月2日から勤務だと言った。確かにお前が件のファミレスの名前と日時を記したメモが見つかった。少なくともバイトを探そうと思ったことは事実だったんだろう。しかし本当に面接を受けたのかは分からないし、合格はしていない。ということは、先月下旬の時点で2日に出て行くことは決めていたわけだ。数日後、俺たちは映画を観に出かけて食事をとった。あの時お前はどういう気持ちでいたのかな。楽しそうに見えたのは錯覚だったのか。

     もう一つ見つけたものがある。そういえばこんなものがあったと俺も思い出した。その名も365日貯金。切り取ったノートに365個のマスが書いてあり、その中に1から365までの数字がふってある。毎日1円から365円までのいずれかの金額を貯金して、該当する数字のマスを塗りつぶすというものだ。一年パーフェクトを達成すれば66795円たまる計算だ。お前がこれを用意したのは1月の10日あたりだった気がする。その時点でお前は、今年もここで暮らすつもりだったんじゃないか。

     バイトの件と365日貯金を照らし合わせて考えると、お前の心境に大きな変化が訪れたのは1月中旬だ。その時期、いったい何があった? お前に決意をさせたものは何だったのか。お前は手紙に、たぶん子供は無理だと俺が言ったとき、もうだめだなと思ったと書いてある。それから数ヶ月経ったわけだが、その間お前はなかなか決心がつかずにいた。それがなぜ1月中旬なのか。全く思い当たる節がないんだ。一日一日を俺はもっと大切に生きるべきだった。もっとお前を気にかけるべきだった。呆けている場合ではなかった。

     最後に身体を重ねた、あの久しぶりの夜に、いっそ子供ができてしまえば良かったと、無茶なことを考えてしまう。

  • 042月
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     お前が新たにアルバイトを始めると言っていたファミレスのチェーン店には、お前の出奔に気づいた直後に電話して、お前の話が嘘だったことを知った。もしや同じチェーン店の別の店舗にいるのではないかと思い電話を入れてみたが、5件ほど当たってみたところでやめた。さすがに、そんなばれやすい嘘はつかないよな。

     その後、最近までお前が働いていた職場に電話をかけた。いくつかあるセンターの一つにでまかせでかけて、お前の名を告げたら、なんと今いるというではないか。どきどきしながら待っていたら、出てきたのは別人だった。一瞬、かつがれているのか、俺が知っていたお前の名前は偽名だったのか、などと突拍子もないことを考えたら、何のことはない、同姓同名の別人だった。気味悪がっている相手に対し、俺は丁重に事情を説明したら理解してくれて、別のセンターの番号をいくつか教えてくれた。早速かけてみたら、お前はそこで先月末まで働いていたと聞いた。2月1日もお前は勤務だと言ってでかけていたが、それは嘘だったと分かった。お前の口から何度か名前があがっていたパートさんを呼び出してもらい、何か知らないか尋ねたが収穫はなし。最終的に若い男性社員が応対してくれたのだが、これが未だに引っかかっている。

     お前は俺に、社員の男性はおじさんばかりで、一人だけ若い人がいると言っていた。そして、その男こそお前が昨年の夏にデートを画策していた相手だった。俺は電話口で男の妙に明るい声を聞きながら、たぶんこいつだと思った。

     お前が毎月末、職場から貰ってきていたシフト表を、経費削減のために個人への配布はされなくなったという理由で貰ってこなくなったのが、ちょうど夏あたりからだったように思うのだが、違っただろうか。以来、いつが休日なのかはお前の口頭による説明だけだった。更に、それまでの勤務ペースが2~3日働いて1日休むというものだったのが、6日連続勤務なんていうこともざらになった。お前は本当に、仕事に行っていたのか? 実は先の男性社員と過ごしていたのではないのか?

     ろくでもない想像ばかりが膨らんでいやになる。仮にこの想像が当たっているとしても、それはそれとして、俺が原因でお前の愛情が薄れた事実は何ら変わらないじゃないか。馬鹿げてる。

  • 042月
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     こんなとき、文章を書くしか気持ちの表現方法がないのは辛い。実際は書きながら何度も中断し、感情のたかまりを抑えきれずに声を上げて泣くこともあるのに、できあがった文章は妙に落ち着き払っていて、全て作り事のようにも見えてしまう。どこまでが本気か分からず嘘くさい。もしもお前がこの文章を読んだとしても、俺の気持ちはどこまで伝わるだろう。

     お前は手紙の中で、3月に切れることになっているこのレンタルサーバとの契約は更新しないからブログも消えると書いているが、俺は契約を更新するつもりだ。お前の人生は遁走の繰り返しで、そのつど人と縁を切り、物を捨て、行方をくらましてきた。お前はそれで人生を何度もリセットしたつもりでいるかもしれないが、残されたものは簡単にリセットなどできない。生きるという事は、あちこちに足跡をべたべたと残すことだ。足跡を残したら、責任を持て。ここはお前と俺が唯一繋がる可能性のある場所であり、お前の思い出だけでなく、俺の思い出もたくさん詰まってる。そう簡単に消してたまるか。消されてたまるか。

  • 042月
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     もう二人とも限界にきていたと思う――お前の手紙にそう書いてある。

     確かに俺たちは二人ともピリピリしていた。いつも呑気なお前と、それを我慢できない短気な俺。何事にも雑で抜けているお前と、それを叱責する俺。結婚・出産を望んだお前と、煮え切らない俺。

     二人が心から楽しく過ごせたのは、もう随分前のことだ。互いに求めているものを与え合うことができず、俺たちは疲弊していった。それでも誤魔化し誤魔化し、自分の気持ちに蓋をして、どうにか日々を過ごしていた。皮肉なことに最後の夜、俺たちはある動画を観て、久々に二人して腹を抱えて笑ったっけ。

     今さらになって思うのは、お前の欠点はお前の長所でもあったのだし、何も俺はいちいち目くじらをたててお前を責める必要などなかった。何をするにもスピードが遅い? バッグの中がいつもゴミだらけ? 物入れや棚から取り出したものをそこらへんに放って元に戻さない? すぐに物を壊したり失くしたりする? そんなことがいったい何だというのだろう。全く、どうでもいいことじゃないか。

     二人はセックスレスに陥った。主な原因は駄目な自分を嫌悪していた俺にある。気分の落ち込みで、そんな気持ちにはなれなかった。お前の求めに応えないことで自己嫌悪は深まった。最悪なことに俺は、こうなった原因はお前にあると言った。お前の欠点や、お前が俺に対してしてきたことをあげつらい、だからそんな気にはなれないのだと自己防衛のための卑怯な嘘をついた。ますます自己嫌悪が募った。悪循環だった。

     お前は努力した。それはもう充分に。俺を苛立たせないよう、短所を克服すべく健気に頑張った。自分に磨きをかけようと、ファッションや化粧などに気を遣った。そうすれば俺の気持ちが動くと信じて。なのに俺は認めなかった。正当に評価しなかった。あまりにも理不尽で、酷い仕打ちをしてしまった。

     たらればの話をしても無意味なのは分かってる。それでも今は想像せずにいられない。もし俺がお前に口うるさく言わなければ、セックスレスの原因になった悩みを正直に打ち明けていれば、お前の頑張りを評価して最大限の賛辞を贈っていれば、もっとお前に手放しの愛情を注いでいれば、そして、お前と家庭を作り上げる夢に真剣に対峙していれば、いつからかお前に感じていた、“もうお前の気持ちは俺に向いていないんだろう”という疑念を、俺は抱かずに済んだだろうか。

     時間を巻き戻すことができればいいと、本当に思う。

  • 042月
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     さすがに疲れていた。3時間ほど眠ることができた。

     寝付くまでの小一時間、いろんなことをぐるぐると考えた。まず最初に感じたのは馬鹿ばかしさだった。なぜ俺は、俺だけを悪者に仕立て上げようとしているのか。確かに俺には至らない点が多々ある。でもそれはお前も同じだ。俺とお前は二人とも、欠陥だらけの人間じゃないか。確かに俺は罪深いことをしたと思う。でもお前にだって罪はある。俺が罪の重さに打ちひしがれているからと言って、お前の罪が帳消しになるわけじゃない。なのに俺はお前をことさら美化し、可哀想な被害者として祭り上げてしまった。冷静さを欠いて盲目的になっていた。

     次に感じたのは怒りだった。お前は俺を何度も欺き裏切った。裏で画策し、こそこそと逃げ出すように家を出たのは、もう何回目だ。今回だって、仕事に行くと嘘を言い、面接に行くと嘘を言い、初出勤だと嘘を言い、そのたびに荷物を少しずつ持ち出して、お前は着々と準備を進め、出てゆく直前まで何事もないようにふるまい、俺にキスをし、一緒のベッドに寝て、いつものように行ってきます、行ってらっしゃいと言い、お前は忽然と姿を消した。俺が望みを叶えてあげられなかったせいで、お前には辛い思いをさせてしまっただろうが、しかしここ数日間、お前が感じていたのは辛苦よりもむしろ、高揚や歓喜ではなかったか。最後の夜に、どういう風の吹き回しかお前は俺に酒のつまみを買ってきた。なんでこんなこと? たまにはいいかと思って、と会話を交わしたその瞬間のお前の笑顔を、俺はなぜだか覚えてる。あれはささやかな贖罪のつもりだったのか。それともなけなしの感謝の意か。まんまと騙されている間抜けな俺を見て、お前は密かに達成感を満たしていなかったか。こんなに人を馬鹿にした話があるか。

     次に感じたのは憎しみだった。お前は俺と付き合っていきたいと言った矢先、元彼のところに戻るということを繰り返した。そこではしっかり男女の関係も結んでいた。俺の男友達を紹介すれば、好きになってしまったかもと言い出す始末。そして去年の夏、職場の同僚と秘密裏にデートする計画を立て、しかし抜けているお前の杜撰な計画はすぐに俺の知るところとなった。俺が大のお気に入りとしていたお前お手製のスモークチキンを、職場のパートのおばさんにも振舞うと言ってお前は持ち出したが、実はその男の酒のつまみになっていた。以来俺は、その料理を食べることができなくなった。そんなもの、食べられるか。そして今回、ここからは憶測だが、やはりお前は誰か他の男と一緒にいるんだろう。昔、俺の家に転がり込んだように、今度もまた誰かの家に転がり込んだのだろう。保証人のいないお前が独力で新たに家を借りたとは、経済的にも物理的にも考えにくい。なかなか仕事が見つからない今のご時勢を斟酌すればなお更だ。友人などおらず、実家や妹君の、今度の件は知らなかったという言葉に嘘があるとも思えない。やはり誰かの助力を借りているのではないか。そもそもお前には後ろ暗いところがあるからこそ、正々堂々とこの家を出ることができなかったんじゃないのか。俺にすっぱり三行半を突きつけて、身辺を整理し、それが一度では無理ならこれからの所在を明らかにした上で出て行けば良かったのだ。お前は今、過去を断ち切り、新たな生活に希望を見出し、安らぎと温かみと自由を味わっているかもしれないが、お前がいた頃とほぼ変わらないこの部屋で、俺はこれからもお前の幻影を見ながら過ごしてゆくことになる。ほんの二日前までは、こうしてPCの前に座り、ふと振り返るとお前の寝顔があった。今もまだ、つい振り返ってしまう。しかしお前はいないのだ。まるで小旅行にでも出かけるようにごくわずかな荷物だけを持ち出し、あたかも生活拠点はまだここにあるかのごとく思わせる、お前のにおいの充満するこの部屋に、しかしお前はいないのだ。なぜこんな残酷なことをしてくれた。

     次に感じたのは自己嫌悪だった。お前が黙って家を出たり、他の男に目を奪われたりしたのは、俺がそうさせてしまったところが多分にある。お前が本音を言いにくい状況を俺は作り、お前の気持ちが揺らぐほど俺は失望させてしまった。結局はやっぱり俺自身の至らなさ、不甲斐なさが原因なのだ。なのに俺は、またお前を責めてしまった。お前の幸せを願っているのは本当なのに、お前のことを思うと胸が痛んで発作的に嗚咽が漏れそうになるのに、お前に逢いたいだけなのに、お前に謝る機会をたった一度でいいから与えて欲しいだけなのに。情けないと思われようが、女々しいと思われようがかまわない。俺を許してくれ。

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